私たちが親しみながら食べている和牛。和牛の始まりは但馬牛と言われています。今回はこの但馬牛について調べてみました。
■和牛のルーツ・起源は但馬牛!?
但馬牛は日本の黒毛和種の始まりと言われています。そして全国にいる黒毛和種を調べると99.9%が但馬牛の子孫であることがわかりました。どのように日本で和牛が栄えたのか、その歴史をまとめてみました。
ー昔は働き者の牛として親しまれていたー
但馬牛は紀元前390年(弥生時代)に朝鮮半島で家畜として飼育されていた牛で、移民人と同時に兵庫県の但馬地方に渡来してきたのがきっかけであるとされています。
日本は奈良時代から1000年以上に渡り肉食を禁じられていたため、荷物の運搬や耕作に役立つ牛として親しまれていました。
かの戦国時代に大阪城が建てられる際は石垣を作るための石の運搬に但馬牛が選ばれ、
無口な働き者として当時は有名であったそうです。
ー食用として育種改良が始まるー
明治時代に入ると、肉食が解禁され牛肉の需要が高まったことにより良い牛肉を開発すべく政府主導で但馬牛含め全国各地の牛の育種改良が進められました。
様々な掛け合わせを行った結果、和牛の品種である「黒毛和種」「褐毛和種」「日本短角種」「無角和種」の4種類が誕生しました。
しかしこの品種改良の末、国内には純血の黒毛和種が残っておらず絶滅の危機に直面していました。
ー絶滅を救った4頭の但馬牛ー
そんな中、香美町小代区の山里深い地域に品種改良を逃れていた但馬牛が4頭残っていたことがわかりました。そこは標高700mの高地で他の村とも遠かったため自然と閉鎖的環境が出来上がっていたので品種改良の働きから守られていたのでした。
この4頭残った内の1頭の子孫が「和牛の偉大なる父」と言われている「田尻号(雄牛)」であり、生涯で1500頭もの子孫を残したのでした。
■但馬牛の田尻号から「神戸ビーフ」「特選松阪牛」「近江牛」は誕生した
この田尻号は奥深い高地の中のみで交配が行われた牛であり、それが功を奏したのかとても優秀な雄の血統集団であり、肉質の強い遺伝子をもった種雄牛でした。
精子凍結などの技術もなかった時代ですが自然交配で1500頭もの子孫を残し、現在の黒毛和種の99.9%のルーツになっている和牛の父であります。そして皆が高級和牛で有名と認識している「神戸ビーフ」「特選松阪牛」「近江牛」も元をたどるとこの田尻号から誕生しているのです。
ー厳しい基準をクリアした神戸ビーフー
神戸ビーフに関しては、但馬牛の中でもより上質なお肉のみが選ばれており、2009年にアメリカのオバマ前大統領が来日した際にオーダーした食べ物であることで有名です。
神戸ビーフが他ブランドと違う点としては、「生きた神戸牛はいない」ということです。どういう意味かというと、通常はその地で育てられ出荷されるという流れですが、神戸ビーフは但馬牛として育てられた後に枝肉となりセリに出されるのです。このセリの前に肉質等級が決まる審査に出されます。
よくA4、A5などの等級を耳にしたことがあると思いますがこのランクが事前に決められるのです。但馬牛の中でも厳しい基準をクリアした牛肉だけが神戸牛として認定されます。
ー個体の識別管理がされている松阪牛ー
松阪牛は神戸牛・近江牛(米沢牛)の三大和牛として親しまれているブランド牛です。
松阪牛も元は但馬牛を三重県松阪地方へ連れてこられたところから始まっており、松阪牛になれる牛は黒毛和種で出産をしていないメスと決まっています。
そして松阪肉牛共進会という組織が設立した、松阪牛個体識別管理システムに登録されていなければ松阪牛と名乗ることはできないのです。
その中でも特産松阪牛は「松阪牛の中でも、兵庫県産の子牛を導入し松阪牛生産区域で900日以上肥育した牛」と定義が付けられています。農家の方が1頭1頭手塩にかけて育てるためコストとリスクを負う分、希少性の高い霜降りで脂肪分が豊富なまろやかな特選松阪牛が育つのです。
ー日本最古のブランド牛「近江牛」ー
最後に日本最古のブランド牛と言われている近江牛。元をたどると但馬牛である近江牛の肥育は400年以上の歴史があると言われています。しかしながら「近江牛ブランド」としての歴史は浅く、近江牛の定義がルール化されたのは2005年、そして商標登録は2007年と他の三大和牛と比べるとブランド化されたのは最近のことです。
近江牛は琵琶湖の自然豊かな中で育てられ、霜降り度合いが高く柔らかい肉質です。特有の香りと脂の甘さで口に運ぶととろける肉質が特徴です。
■黒毛和種の99.9%は田尻号の血統を持っている
日本で生まれてくる黒毛和種の母牛99.9%が「田尻号」という種雄牛の子孫にあたるということがわかりました。これは平成24年2月に全国和牛登録協会の調べで明らかになりました。
母牛だけでなく、全国にいる種雄牛はもちろん但馬牛の血統を持っているのでほぼすべての黒毛和種が田尻号の子孫であると言えます。田尻号は足腰が強く丈夫で健康なのが特徴であり、遺伝力も非常に強いため絶滅寸前からここまで繫栄することができたと言えるでしょう。
ー但馬牛の特徴ー
体の特徴としては全体が黒毛で覆われていますが毛の先にやや褐色が入っており、体高は雄で139㎝、雌は127cmあります。肥育によって筋線維が高く肉質のよい霜降り肉となります。
■但馬牛・日本の黒毛和牛の父「田尻号」
田尻号は明治時代後半の品種改良に伴い純血の但馬牛の生存が危ぶまれた際、唯一高野で生き残っていた但馬牛から改良が進められた牛です。当時4頭しか残っておらず、限られた雄牛の精子のみで交配されることで血統の純化をしながら改良を進めることができたのでした。
また、田尻号は特別体格が良いわけではなかったが手塩に掛けて育てられた結果、半年後に美方郡の種雄牛候補となり現在の但馬牛の第一歩となったのでした。さらに種牡牛としての12年間、自然交配で1500頭もの子牛を残しています。当時人工授精がない中で優れた繁殖力を持つ牛として称されました。
■田尻号と田尻松蔵氏
「和牛の偉大なる父」と言われている究極の牛「田尻号」を育て上げたのが田尻松蔵さんです。
松蔵さんは幼い頃から牛が大好きで、良い牛を見分ける眼を持っていました。田尻号の母牛であるふく江と出会った際、立派な牛だと確信し多額の借金をし購入しました。
ー究極の牛の誕生ー
松蔵は牛を大切に育てる牛飼いとして有名で、毎日ふく江にマッサージを行い、良質な牧草を食べさせるために土地の開拓まで行うなどして大切に育て上げました。田尻号はふく江の4頭目として産まれた子牛で、ふく江と同様にたいへん可愛がられて育った結果、特段優れた肉質をもつ和牛の最高峰として成長していきます。
松蔵さんはこれまでの功績を称えられ昭和30年に黄緩褒賞を受賞されるのですが、その顕彰碑へは「この名牛が生まれたのは偶然ではない。自然的な要因と、人為的な条件が融合しなければ叶わなかった。」と記されています。
但馬牛が元々持つ強い遺伝子だけでは田尻号が究極の牛と言われることはなかったかもしれません。
■但馬牛が生まれた産地 兵庫県美方郡香美町とは
美方郡は兵庫県の北部に位置し、集落のほとんどが山間部の谷筋にあり冬は積雪が多い地域です。昼夜の気温差が大きいため夜露がおりやすく夏でも柔らかい草が育つため、但馬牛はこの草を肥料として食べ、広い山に放牧され伸び伸びと育てられています。
美方郡は名牛の産地と言われており、子牛は農家の大切な収入源であったため牛の飼育や改良に熱心で、和牛改良においては全国の先頭に立つ地域でした。
ー但馬牛とともに繫栄してきた町ー
子牛とともに繫栄してきた美方郡は昭和50年以降、子牛が1頭数百万で購買されることもあり、全国の和牛生産者から求められ続けています。現在の美方郡産但馬牛の農業生産額は42.6%と主要な産業であります。
しかし、美方郡の3人に1人は65歳以上で高齢化による但馬牛の生産の廃業が深刻化となっており、繫殖雌牛の飼養頭数が年々減っているため生産基盤の強化が必要となっています。
ー観光でも但馬牛との結びつきが強いー
観光においては日本海に面しているため冬には雪や温泉などに恵まれ、美方郡に訪れる観光客は年間約143万人います。
また、郡内にある道の駅では但馬牛の精肉販売所が併設されてあったり、地元で採れた新鮮な食材を使用したメニューを提供するレストランもあります。さらに「山陰海岸ジオパーク」では但馬牛の子牛が名誉駅長に就任しており、但馬牛との結びつきは強いのです。
■まとめ
但馬牛が生き残り、田尻号が丈夫な種雄牛でなければ世界に誇れる和牛ブランドは生まれていなかったかもしれません。
現在も田尻号の遺伝子を引き継ぐ牛が誕生し歴史が続いています。
歴史を紐解いていくとこれまで以上に和牛が高価で価値あるものだと知ることができるはずです。
歴史に触れることでまた違った味わい方ができるでしょう。